「真昼の暗黒」

「真昼の暗黒」

1956年

 

1951年に起きた八海事件

単独犯だった犯人が罪を軽くすることを目的に4人の知人を共犯者に仕立てた。この事件を担当した弁護士、正木ひろしが著した『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』を原作とする社会派映画。

 

公開時、事件はまだ最高裁判所で係争中だったが、1968年の最高裁判決により、共犯とされた4人の無罪が確定している。


監督:今井正

 

小島は土工仲間の中で浮いている。ダンスパーティーに皆で出かけた帰りの夜、笠岡の遊郭に行こうと言ってうるさい酔っ払いの彼を無視して仲間たちが歩いていくとふてくされて、側に停まっていた馬車に積まれていた砂利をひっくり返す。前科のある植村は首謀者とみなされた。彼は内縁の妻になったカネ子の実家に挨拶に行った帰り、駅前で捕まえられる。二人の弁護士はカネ子に検察が警察と癒着していること、判事もなかなか独自の判断をしないことを話す。宮崎の実家の食堂では、宮崎の母の愛人でもあった西垣巡査が質問される。

独立映画(製作:現代ぷろだくしょん)

アリバイがはっきりしているのに捕まるとは何なのか。

自分に火の粉が降りかからないように、証人もちゃんとした証言をしなかったので、事件の流れが明確にならない。

この映画を見ると、真実をそこに見たような気になってしまう。

タイトルは、ソ連での自白強要と粛清の惨状を告発したアーサー・ケストラー同名小説からとられた。

 

八海事件(やかいじけん)とは、1951年(昭和26年)に山口県熊毛郡麻郷村(おごうむら。現在の田布施町)八海で発生した強盗殺人事件である。のちの裁判で被告人5人のうち4人が無罪になった。

1951年1月24日深夜、山口県熊毛郡麻郷村八海で瓦製造業を営む夫婦(ともに当時64歳)が殺害され金銭が奪われる事件が発生した。夫は刃物で頭部をめった打ちにされ、胸を鈍器で殴られて殺害され、妻は鼻と口を塞がれて窒息させられた後、鴨居から首を吊った状態で発見された。

警察の捜査の結果、窃盗の前科があって金に困っており、被害者夫婦とも面識があった経木製造業者のX(当時22歳)が26日に逮捕された。Xが着ていたジャンパーには被害者夫と同じB型の血液型が付着していたことや(Xの血液型はO型)、事件後にXがタクシーや遊郭で使った十円札と続き番号の十円札が被害者宅に残されていたこと等の物証が存在した。Xは同日の調べに対し、自分1人で夫婦を殺害し金を奪い、さらに犯行を夫婦喧嘩に見せかけるために現場を偽装したと供述、単独での犯行を主張した。

しかし警察は現場の偽装工作が単独犯ではなく複数犯の仕業であると推定し、共犯者に関する供述を引き出すため拷問を加えた。一方のXも、自分の量刑を軽くしたいとの思いも手伝って28日に共犯者として知人ら5人の名を挙げた。この供述に基づき、同日に人夫のA(当時23歳)、B(当時21歳)、C(当時22歳)、D(当時24歳[])が、29日に人夫の阿藤周平(当時24歳)が逮捕された。阿藤とCには窃盗の、Aには強盗と窃盗の前科があった。

Xは、事件は阿藤の主導により6人が共謀して行ったものであり、自分は従犯だったと供述していたが、ほどなくDにアリバイが成立し釈放されたのを経て、2月1日に供述を5人での共謀に変更した。

その後、阿藤、A、B、Cは取調室の密室で拷問を受け犯行を自供した。

またXは無期懲役が確定した1965年以降、刑務所から自分の単独犯であるとの上申書を17通最高裁に送っていたが、Xが別の共犯者をでっち上げる、他人の獄中手記を剽窃する[5]、などの問題を起こしており、また単独犯行の供述を撤回し5人での共謀を再び主張するなどしていた[6]ためにまともに取り合われず、全て刑務所の職員が破棄していたことが後に判明した。

正木ひろし弁護人は著書『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』を、原田香留夫弁護人は著書『真実 八海裁判記』を発表し、この裁判の冤罪性を国民に訴えた。

 

さらに、その冤罪説に対し4人に有罪を下した山口地裁裁判長の藤崎晙が「裁判官は弁明せず」の伝統を破り『八海事件 裁判官の弁明』や『証拠 続八海事件』という反論本を出したことも注目されたが、この反論本は集合時間などについて自身の判決から訂正・再訂正をする形になったため批判を浴びることになった。

1971年、無期懲役判決を受けて広島刑務所で服役していたXは事件以来20年8ヶ月ぶりに仮出所となった。Xは鉄工所に勤務しながら原田弁護士の事務所をたびたび訪問し、4人への謝罪行脚も行った。その後、仮釈放中のXは1976年に広島県で27歳の男性を絞め殺そうとした容疑で逮捕され、殺人未遂罪で起訴されて裁判中の1977年7月11日に49歳で病死した。

阿藤は1968年に手記『八海事件獄中日記』(朝日新聞社)を発表し、大阪市内で運送業を営むかたわら死刑廃止運動に奔走していたが、2011年4月28日、肝臓がんのため84歳で死去した[10]