46.片棒
石町に大店を構える赤螺屋(あかにしや)の主人・吝兵衛(けちべえ)は、若いころから爪に火をともすような倹約で財をなした“大ケチ”として有名である。
そろそろ商売の跡目を三人の息子のうち誰かに譲らねばならないが、道楽者に身代を潰されてはたまらない。そこで番頭の助言を受け、「私が死んだら、どんな葬式を出すつもりか」を息子それぞれに尋ね、金銭感覚を試すことにした。
まず呼ばれた長男・金は得意げに語る。
通夜は二晩、僧侶は五十人、本葬は大寺院を借り、会葬者には豪華な重箱の料理と別染めの風呂敷包み、帰りの車代まで持たせるという大盤振る舞い。商家として立派に見えるが、これでは身代が吹き飛ぶと吝兵衛は呆れはてる。
次に次男・銀
「粋で景気よくやります」と言い、町内を紅白幕で飾り、刺子半纏の頭(かしら)連中の木遣から始まり、芸者衆の手古舞、主人そっくりの算盤を持ったからくり人形の山車、神田囃子を景気よく鳴らし花火まで打ち上げると調子よくまくしたてる。落下傘つきの位牌がひらひら舞うくだりまで口真似するので、吝兵衛は「馬鹿野郎!」と怒鳴り追い出してしまう。
最後に三男・鉄を呼ぶと、彼は父親そっくりの“どケチ”。
棺桶に金を使うのはもったいないから、台所の漬物樽で十分。荒縄をかけ、天秤棒でかつげるようにして出す、と平然と言う。さらに「片棒は私が担ぎますが、どうしてももう片棒は誰か雇わないと…」と続けると、吝兵衛は堪えきれず叫ぶ。
「そんな無駄なカネをつかっちゃあいけない、片棒はこの俺が担ぐ!」
“ケチ”を笑いに変える江戸の価値観。
長男は虚栄、次男は見栄と派手さ、三男はケチを極めて父と同質。
三者三様の“金銭感覚のゆがみ”を通じて、人間の欲と愚かしさをユーモアに昇華している。
特に三男の絶望的な倹約案に、父である吝兵衛自身が「担ぐ」と言ってしまう構造は、ケチとは節約ではなく、価値観が歪む病のようなものであることを示す。
また葬式という重い題材を扱いながら、“生きているうちに自分の姿勢を見直せ”という含蓄があり、笑いの奥に人生観が潜んでいるのも、この噺の魅力である。
