昇吉誕生

僕は町田駅から町田市民ホールへ、緊張しながら急いでいました。

「國枝明弘と申します。え〜、学生時代から昇太師匠のファンで、弟子になりたいとずっと思っていました……いや、これじゃあっさりしすぎかな」

そんなふうに独りごとをつぶやきながら歩く自分は、きっと傍から見れば怪しい人だったでしょう。リュックの中には、履歴書と、師匠への思いを綴った手紙。

この日、僕は昇太師匠に弟子入りをお願いしに向かっていたのです。

大学時代、知り合った友人が偶然にも昇太師匠のマネージャーさんと親しかったため、事務所の連絡先を教えてもらい、思い切って相談してみました。すると、「今度町田で落語会があるから、その時に履歴書を持ってきてみたら?」とアドバイスをいただきました。

正直、人生でこれほど緊張したことはありません。師匠への手紙も、なかなか書き出せませんでした。駅からホールまでは、普通なら10分ほどの距離。でもこの日は、二十分、いや三十分歩いてもなかなか着かない気がしました。

会場について楽屋口から中に入り、しばらくすると師匠が現れました。Gジャンにジーパン、スニーカー、そしてハンチング帽というラフな格好。
僕は動揺し、用意していた言葉は全部飛んでしまい、とにかく「突然失礼いたします。國枝明弘と申します。弟子にしていただけませんでしょうか」と頭を下げるので精一杯でした。

「オレさあ、もう弟子とっちゃったんだよなー」

顔を上げると、昇太師匠が少し困った表情をしています。

「えっ……」
「この間、とったばっかりなんだよね」

僕は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかありませんでした。

それでも履歴書と手紙を渡すと、師匠は「後で電話するから」と言ってくれました。

――行きの高揚感はどこへやら。帰り道は、しぼんだ風船のように、トボトボと歩くだけでした。

もし昇太師匠に断られたら、僕はどうしたらいいのだろう。
そんな不安な気持ちを抱えながら、二週間ほど日雇いバイトをしつつ、祈るような思いで連絡を待ちました。

しかし、幸運にもしばらくして入門許可の連絡があり、「名前を考えて」と伝えられました。
落語家の“前座名”をもらうのは、プロとしてのスタートを切る特別な儀式です。

多くのドラマや漫画では、こう描かれています。
神妙な面持ちの師匠の前に弟子が正座し、「お前の前座名を決めたから」と重々しく言い渡す。

「昇吉。昇太の昇に、おみくじの吉。今日からお前は春風亭昇吉だ」
「ハイ、ありがとうございます!」
「しっかり精進しろよ」
「ハイ、師匠!」

――そんなシーンを、僕も勝手に想像していました。

ところが現実は違いました。

「國枝君、名前の候補、考えといてくれる?」
「は、はあ……?」
「前座名。自分で10個くらい考えてきてよ」

自分の名前を自分で考える!?
「そんなの聞いたことないよ……」と心の中で叫びつつ、考え始めました。

落語家の“前座名”は、師匠の名前から一字もらうのが定番です。昇太師匠なら「昇」がつく名前。一晩中考えて、10個の名前を師匠に提出しました。

その中から師匠が選んだのが「昇吉」。こうして、僕は「春風亭昇吉」になったのです。