言い訳禁止
昇太師匠に弟子入りすることが決まったとき、私は大学時代にお世話になった別の師匠のもとへ、あいさつに伺いました。その師匠は、学生相手にも真剣に落語を教えてくださる、面倒見の良い方です。
「師匠、入門することが決まりました。これから寄席で修業します」と報告すると、師匠は「一つだけ教えてあげるよ」と、静かにアドバイスをくださいました。
「プロの落語家になったら、言い訳をしてはいけない。」
たとえば、師匠が飲んでいる湯呑がテーブルの端にあって、落ちそうになっているのに気づき、私がそっと湯呑を動かしたとします。すると、師匠が「なんだよ、まだ飲んでたのに」と叱ってくる。
「いや、落ちそうだったので動かしたんです」と正直に説明したくなる気持ちをグッと堪え、「すみません」と一言、頭を下げる。
「そこでごちゃごちゃ説明したら、それは『言い訳』なのだ」と、師匠は語るのです。
落語の世界では、言い訳はご法度。自分の意図や正当性を訴えることより、「理不尽」を呑み込み、黙って謝ること――それが、この世界の第一歩なのだと教わりました。
「理不尽だ」と感じていても、努力は必ず誰かが見ている。自分が気を利かせたことは、説明しなくても、見ている人にはちゃんと伝わるものだ――だからこそ、「どんなに理不尽に思えても、言い訳せずに頭を下げよ」。理不尽は飲み込むもの、と言われてますが、できればビールで流し込みたいです。
ある日、昇太師匠の独演会に同行したときのことです。楽屋の入り口に掛ける暖簾用の突っ張り棒を、「百円ショップで買ってきて」と前日に頼まれていました。
ところが、私が寄席に入る時間には近くの百円ショップが開いていない。仕方なく、近くの東急ハンズで一本1800円の突っ張り棒を買って持っていきました。
それを見た昇太師匠は、「お前、百円ショップで買って来いって言ったのに、なんでハンズで買うんだ!」と、滅多にないほど激怒されたのです。師匠が怒っているのは決して金額の問題ではなく、「他の百円ショップを探す」という手間をかけず、近くのハンズで安易に済ませた“姿勢”を問題視されたのです。
「楽をするな」というのが師匠の真意でした。
このときも私は、下北沢の自宅、浅草演芸ホールの昼席、新宿サザンシアターに道中に、時間的地理的に行ける100円ショップは存在しないという事情を一切言及せず、「もうしわけございません」とだけ答えました。
この世界では、それ以外は不要。もし一言でも言い訳をしたら、「こいつは分かっていない」と信用を失ってしまう。
とはいえ、理不尽を呑み込むだけで終わってはいけない――私はそう考えています。
たとえば、師匠にお茶を出したとき、「お前、何やってるんだ!」と一喝される。「お茶を運ぶときは、茶たくに湯呑を載せたまま運ぶな。揺れたらこぼれるだろ? 別々に運んで、出すときに茶たくに載せるんだ」――。
どこに地雷があるかわからない。ひたすらビクビクしながら、日々失敗し、怒られる。
この「どこに理不尽が潜んでいるか分からない世界」で、どう生き抜くか。私が辿りついた答えは、“自分なりに状況を整理し、対策を可視化すること”――すなわち「マニュアル化」でした。
師匠や先輩ごとに違うお茶の好みや着物の畳み方、気をつけるポイント、出囃子の太鼓のリズム。さらに、寄席やホールごとに異なる段取り。こうした細かいノウハウを、私はパソコンにまとめていきました。
手書きメモでは探しづらい情報も、データなら更新・検索が簡単。プリントして胸ポケットに忍ばせ、困ったときはそっと取り出して確認できる。
自分なりの「極秘マニュアル」があるだけで、余計な不安や混乱から自分を守ることができたのです。
たとえば――
桂歌丸師匠:座布団は普通、高座で湯呑使用、歌丸畳み、帯立て・襦袢・羽織。カラドン。
三遊亭小遊三師匠:座布団は普通。お酒を飲む。三杯目の茶スグ・ドンガン。
夢丸師匠:灰皿は下げない(吸った本数を数えている)。座布団は後ろ寄り。浅草で一本目の線。帯は上三つ畳。着物・羽織・襦袢。大拍子。
太鼓の叩き方も――
大拍子:じゃじゃててじゃててじゃんじゃん×2、ドンてってってって×2どん、ててどど×4、てど×4、うんじゃじゃじゃん
分からない人にはチンプンカンプンでしょうが、自分なりの言葉で「理不尽の地雷原」を少しでも歩きやすくするための地図でした。
やがて自分が新入り前座に教える立場になったとき、このマニュアルを後輩にも渡しました。寄席の運営がスムーズに進むほうが、お客様にとっても絶対に良いと判断したからです。
もちろん、こうしたマニュアル化には、「答えのないものをマニュアル化するなどナンセンスだ」「落語は口伝の世界、型にするな」という反論もあります。私もそれを否定するつもりはありません。
理不尽のまま放置せず、その中で自分なりの工夫や成長を重ねていく。
これこそが、自分という存在を育てていく道だと、私は信じています。