明大前から浅草まで

前座時代、とにかくお金がありませんでした。バイトもできず、もらえる「ワリ」は一日に千円札一枚。文字通り、その一枚を握りしめて暮らしていました。

交通費さえ惜しいので、明大前から浅草演芸ホールまで歩いて通っていたんです。まずは明大前から新宿まで小一時間。そこから中央線で神田へ出て、さらに田原町まで歩く。まるで競歩。寄席にたどり着くころには、ほとんどヘトヘトでした。

歩きながら、頭の中でネタのおさらいをぶつぶつ。夏は炎天下で汗だく、冬は冷たい風に吹かれながら、ときには雨にも降られました。もともと地黒だったのですが、日焼けでさらに真っ黒に。立前座の兄さんに「お前、日サロ(※日焼けサロン)行ってんのか?」と、からかわれるほどです。

でも一番きつかったのは、やっぱり「空腹」でした。師匠が「これでも食え」と乾燥うどんをくださったのですが、僕の部屋にはコンロがありません。仕方なく、戸棚の奥でオブジェと化していました。

唯一の味方は電気ポット。スーパーで買った五個パック200円のチキンラーメンが、毎日の命綱でした。一日一個ずつ、大切に食べる。でも、さすがに毎日食べていると飽きてきます。卵を落としたり、七味をかけたり、おにぎりの残りを入れてみたり、工夫しながらなんとかやり過ごしていました。

ある日、甲州街道沿いの畑にキャベツの葉っぱが落ちているのを発見。「これも命だ」と思い、拾ってラーメンに投入。今思えば、なりふり構っていなかったなあと思います。

そんなある日、ふと気づいたんです。歩いている僕のことを、周りの人が自然と避けていく。黒くて、ギョロギョロした目の男が、ぶつぶつ言いながら歩いている。そりゃ、避けますよね(笑)。

でもあの頃の自分がいたから、今の自分があります。どんな状況でも、前を向いて生きる。そんな力を、あの競歩の日々が育ててくれたのかもしれません。