「噺の稽古、人生の余白」
落語家の命は、稽古にある――この言葉は、私のなかでゆっくりと沈殿し、日々の暮らしの底に静かに居座っています。
稽古という営みは、やればやるほど、底なし沼のように足を取られます。もがけばもがくほど、知らぬ間に砂の穴に沈んでいく。そんな不安と葛藤に、私は幾度も心をさらわれてきました。
いま、私は静かな部屋の片隅で膝を折り、しびれる膝頭を気にしながら、壁に向かってひとり稽古をしています。外の風はまだ冬の冷たさを残し、窓の外では猫が長い声で鳴いている。猫に、私の落語の稽古が分かるはずもありません。ただ、私の小さな呟きと着物の衣擦れの音だけが、部屋の静けさをそっと満たしているのです。
昭和の大名人・三遊亭圓生師匠。私はその芸に直接触れたことはありません。それでも、古い録音に耳を澄ませるたび、師匠の芸に宿る鬼気迫る稽古の痕跡や息遣いが、胸の奥深くまで沁み込んできます。
録音機器がなかった時代、落語家は「三遍稽古」で芸を覚えたといいます。師匠が三度だけ目の前で噺を実演し、それを全身の耳で受け止め、何度も反芻し、魂に刻み込む――その厳しさは、現代に生きる私たちには想像もつかない世界です。
今は録音も動画も簡単に手に入る時代。私は何度も同じ噺を繰り返し聴き、覚えようとします。でも、気づくと“覚えたつもり”になっているだけで、自分が本当に噺の本質に近づいているのか、不安になる夜があります。「私は何をしているのか」「落語家として何を残せているのか」――稽古の最中、頭の中が真っ白になり、畳の上で声を絞り出そうとしても、言葉が出てこないことがある。
落語家には「アゲの稽古」という儀式があります。師匠の前で初めて噺を演じ、「まあ、やってもいい」と許されて、ようやく高座で披露する資格を得る。ある日、私はそのアゲの稽古で筋を忘れ、言葉が出ず、目の前が真っ暗になったことがありました。師匠の目は、灰色の冬空のように静かで、私はただ小さく震えるしかありませんでした。
私の稽古は、いわば「壁打ち」。誰もいない部屋やカラオケボックスの片隅で、正座してひたすらネタを繰り返します。ときに「隣の部屋から不気味な声がする」と苦情を言われたり、道端で呟いていて警察に職務質問されたことも。「落語家です」と説明しても、警官の目はどこか疑い深い。
そんな日々のなかで、私は気づきました。自分の考えや癖をいったん脇に置き、師匠の教えに素直に身を委ねること。それが何より大切なのだと。素直さは、芸にも人生にも通じる最大の武器です。けれど、やがて自分の芸にも人生にも、自然と自分だけの色がにじみ出てきます。その“はみ出し”の中にこそ、面白さや輝きが生まれるのだと、今は思うのです。
稽古は、終わることのない営みです。人生にも、芸にも、明確な“オチ”がつくまで終わりは来ません。壁に向かって稽古を重ね、楽屋で叱られ、近所の冷たい視線にさらされ、警官に怪しまれながら、それでも私は舞台に上がります。一人きりの静寂を破り、客席の静けさの中に一言目を投げ込む。その瞬間のときめきを、私は生涯忘れることができません。
今日もまた、私は静かな部屋で、壁に向かい、声を出しています。外の猫は相変わらず長い声で鳴いています。
私の稽古は、誰に知られることもなく、静かに、けれど確かに続いていきます。
――そんな人生の余白にこそ、稽古の意味は、そっと宿るのかもしれません。