45.長屋の花見
貧乏長屋の面々が、ある朝そろって大家に呼び出される。
皆、てっきり店賃(家賃)の催促だろうと青くなっている。十八年払っていない者、親の代から結局一度も払っていない者までいる始末だ。震えるような気持ちで大家の家へ行くと、思いのほか陽気な顔で大家が言う。
「うちの長屋が貧乏長屋だと世間で笑われている。この春、景気づけに上野へ花見に行く。店賃の話は抜きだ、今日は楽しもうじゃないか」
住人たちは驚きつつも大喜び。しかし「酒も肴も用意した」と胸を張る大家の言葉に、どこか引っかかりを覚える。案の定、大家は白状する。
一升瓶に入っているのは酒ではなく、番茶を煮出して薄めた“お茶け(おちゃけ)”。
重箱に入っているのは、卵焼きに見せかけた沢庵、かまぼこに見立てた大根のこうこ。
どれも本物ではないが、遠目に見れば立派な花見の一行に見えるという理屈だ。
長屋の連中は呆れつつも、「まあ、ここまで来たら付き合うか」と出かけていく。
上野の山は満開の桜、人だかりでにぎわっている。彼らは毛氈のかわりにむしろを広げ、番茶を酒と信じて飲む練習をしながら宴会を始める。
しかし、お茶けはどう飲んでもお茶。沢庵はどこからどう見ても沢庵。
大家が「玉子焼きを食え」と言えば「最近歯が悪くて…」と住民がとぼけ、
大家が「かまぼこを食え」と勧めれば「カマボコおろしにして食べるのが好きだ」と余計なことを言う。
それでも酔ったふりをしろと大家に言われ、住人たちはヤケクソで番茶を飲み干す。
「どうだ、酔ったか」
「ええ、去年井戸に落っこちたときと同じ心持ちで…」
そんな酒宴の最中、住人の一人が湯呑を覗き込み、嬉しそうに声を上げる。
「大家さん、近々この長屋にきっといいことがありますよ!」
「どうしてだい?」
「酒柱が立っております」
「長屋の花見」の本質は、貧しさを笑いに変える“江戸の知恵と明るさ”にある。
金も酒も食い物も本物ではない。それでも、だからこそ文句を言いながらも騒ぎ、
互いの言葉の可笑しみで盛り上がり、偽物を本物に見立てて楽しむ。
本物か偽物かではなく、みんなでやるから楽しい。
茶柱が“酒柱”に見えるほど、気持ちが前を向いている。
その姿は、江戸の庶民の逞しさそのものであり、
“貧乏でも、心までは貧しくならない”という誇りが、この噺の深みをつくっている。
