44.鰻の幇間
真夏の昼下がり。野幇間(のだいこ)・一八(いっぱち)は、客探しに四苦八苦していた。金のありそうな旦那衆は避暑や湯治に出かけ、町は閑散。そこへ浴衣掛けで歩く男を見つける。どこかで会ったような気がして「へい旦那、ご機嫌よう!」と声をかけると、男も「師匠じゃないか」と応じた。どこの誰か思い出せないが、どうやら知り合いらしい。話が弾み、「鰻でも食おう」という言葉に一八は大喜び。だが、連れて行かれたのは薄汚い鰻屋だった。
二階に上がると、男は「家は汚いが味はいい」と言い、蒲焼と酒を注文。ご機嫌を取るのが幇間の仕事とばかりに、一八は「こりゃあ見事な蒲焼で」「酒も香の物も上等!」とお世辞の連発。やがて男は「ちょっと“しも”に」と立ち上がり、便所へ行ったきり戻ってこない。のぞいてみると誰もいない。
「気をつかって、先に勘定を済ませて帰ったのか」と感激する一八。だが帳場が来て「勘定を」と言う。連れは「羽織の旦那が主人だから、勘定はあっちへ」と言い残して逃げたという。青ざめた一八は、「こんな汚い鰻屋で!」「酒は水っぽい、徳利は欠けてる」と、次々に八つ当たり。ようやく支払うと、代金が高すぎる。驚いて尋ねると、「お連れ様が三人前お土産でお持ち帰りです」と言われる。嘆きながらも手銭の十円札を出し、「お釣りはいらねぇ」。帰ろうとすると、自分の上等な下駄がない。仲居が言うには、「お連れ様が履いて行かれました」。
「鰻の幇間」は、“人を持ち上げて生きる者の悲喜劇”である。
幇間(たいこ持ち)は、人の機嫌を取り、笑わせ、心付けで生きる。だが、媚びた相手に裏切られれば、その生き方自体が自分を嘲る刃となる。
一八は他人を褒めることでしか自分を立てられず、騙されたと気づいてなお、罵りの言葉すら芸にしてしまう。ここには、人間の哀しみを笑いに昇華する落語の精神が宿っている。
鰻のぬめりのように掴みどころのない男に弄ばれる一八は、滑稽でありながら、誇りと屈辱の狭間でもがく“職業的悲哀”の象徴だ。
笑いの奥に、江戸の片隅に生きる芸人の横顔が見える。
