32.手紙無筆

ある日、長屋の八五郎が手紙を抱えてご隠居を訪ねる。自分は読み書きができない“無筆”だから読んでほしい、というわけだ。ところが評判の物知りのご隠居、実は当人も無筆。面子を守ろうと「今日は鳥目で字が霞む」「他人に頼ってばかりでは成長せぬ」など理屈と小言で追い返そうとするが、相手は切迫していて引き下がらない。観念したご隠居は、こんどは“読んだふり”作戦に転じる。「差出人は誰だ?」「たぶん隣町の権兵衛」と聞くや、「なるほど権兵衛だ」と即断。さらに「手紙はどんな用件と思う?」と逆質問し、相手に想像させてから、その内容をそっくり“音読”してみせる。

うまく話をつないでは煙に巻き、時に「薄墨だから不吉だ」「封の内に絵がない」など尤もらしい観察で信憑性を盛る。

しまいに相手が「先日上野広小路で伯父さんに会って——」と口を滑らせれば、「まさにそう書いてある」と被して仕上げる。

 

 

面子と弱さ:知恵者の仮面の裏にある不安。人は体面で生き、体面でつまずく。

共同編集の物語:内容は相手の口から出てくる。会話が「手紙」を共同で作り直す。

言葉の権威の転倒:文字=権威を、話術=即興が乗り越える。

江戸の処世:正しさより場を収める機転。嘘も方便の倫理観。