“ビリ馬”の道を行く
大学に入学すると、多くのクラブやサークルが活発に新入生を勧誘していました。私も、せっかくの大学生活ですから、何かしらクラブ活動に参加しようと決めていました。
岡山にいたころ、私は極真空手に打ち込んでいました。『空手バカ一代』というマンガが好きで、主人公がさまざまな格闘家と闘う姿に憧れたものです。今思えば子供っぽい発想ですが、当時は「空手よりもボクシング、ボクシングよりもレスリングのほうが強そうだ」と感じていました。そこで、真っ先にレスリング部の部室を訪ねました。
説明に出てきた部員は筋骨隆々でしたが、長いまつ毛とつぶらな瞳、そして意外にも猫なで声。そのアンバランスさに戸惑い、「用事を思い出した」と、その場を離れてしまいました。
次にボクシング部に入部しましたが、走り込みや合宿は想像以上に厳しく、自信をなくしてしまい、結局ボクシング部も半年ほどでやめてしまいました。
そんな時、偶然「落語研究会(落研)」の存在を知りました。岡山時代、私は駅の売店で落語のネタを暗記しては、頭の中で何度も再生して楽しんでいたことを思い出し、「そうだ、落語研究会に入ろう」と決意したのです。ところが、実際に落研に入ってみると、漫才やコントが主流で、本格的に落語をやる人は少数派でした。私は古典落語をいくつも覚えていたので、正統派の落語をやりたいと思い、稽古に励みました。
私の高座名は「井の線亭ビリ馬」といいます。東大駒場キャンパスが井の頭線沿線にあることから「井の線亭」、そして「ビリ馬」は“最下位の馬”の自嘲を込めたシャレです。さらに英語にすると「イノセント・ビリーバー(無垢な信じる人)」という隠し味も加えてみました。
この頃は、プロの落語家になろうとは全く考えていませんでした。ただ、言葉と仕草だけで、たった一人で観客を引き込む落語の世界に、だんだんと惹かれていったのです。スポーツでも個人競技が好きだった私にとって、「一人で勝負する」落語はぴったりでした。こうして私の目標は、リング上から座布団の上へと変わっていきました。
学生時代、私は年間200本近くの落語を観に行きました。その中で、「すべての落語家が面白いわけでも、人気があるわけでもない」という現実を知ることになります。いざ自分も落語家になろうと決めた時、誰に弟子入りするかは大いに悩みました。それは、自分がどんな落語家を目指すのか――つまり目標を定めることにもつながったからです。
結局、「自分が心から面白いと思った落語家に弟子入りするのが一番だ」と考え、私は昇太師匠のもとを選びました。
「壺算」という噺があります。正直いって単純な話で、誰がやっても飽きてしまう――そう思っていました。しかし昇太師匠の「壺算」を観たとき、初めて大笑いしました。
しがみつく演技――「買ってくれよう、壺、買ってくれ」「やめなさい、やめなさい」「わかりました、こんな情熱的なお客様は見たことありません」――この独特の間と熱量に、完全に心を奪われたのです。他の落語家が同じことをやっても、おそらく面白くはならないでしょう。昇太師匠ならではの芸、唯一無二の魅力に私は惚れました。
「自分にしかできない芸」を持てた落語家こそ、最強であり、人の記憶に残る存在です。私も昇太師匠のもとで、そんな自分なりの芸を確立したい――そう思い、弟子入りを決意しました。この選択は、今でも正しかったと思っています。
昇太師匠のもとには、弟子入り志願者が多く集まります。しかし、「なんとなく憧れ」で「なりたい」と言う程度の覚悟では、師匠は決して弟子にとりません。
「つらい修行が待っていると分かっていても、『自分にはこれしかない』と思える人だけが、落語家の入口に立てる」――私はそう実感しています。
東京に来て、多くの職業人と出会いました。長くその道を続け、成功している人は、皆「自分にはこれしかない」と思えるものを見つけた人たちでした。どんな職種でも、「自分にはこれしかない」と覚悟を決めて打ち込んだ人だけが、やりがいを持ち、スキルを高めていくのだと思います。
“ビリ馬”のままでも、自分の信じた道を一歩ずつ歩いていく。今は、そんな生き方を大切にしています。