「エッグベネディクトより孤独のほうがまし」
僕がエッグベネディクトを初めて食べたのは、都内のホテルの一階にあるカフェだった。
日曜日の朝、時計の針はまだ九時を少し過ぎたところだった。僕は前の晩にあまり眠れなかった。いろいろと考えごとをしていたからだ。
でも、睡眠不足の朝には決まって美味しいものがほしくなる。なにか、たとえば—エッグベネディクトみたいな。
店内はカリフォルニアから移植してきたような明るい光に包まれていた。
テラス席では、小さなグループが行儀よく会話をしていて、皆なぜか、とても嬉しそうだった。僕の隣では、若い女性たちがメニューを眺めながら笑っていた。
僕はコーヒーを頼み、それとエッグベネディクトをひとつ。それは温かくて柔らかくて、塩分がやや控えめで、黄身がゆっくりとナイフの圧に負けて崩れた。
まるで自己表現の初期段階のような崩れ方だった。だが、食べ終わっても、心の奥に空虚さのようなものが残った。
たぶんそれは、僕が根っから、エッグベネディクト的な世界に向いていないせいかもしれない。
だいたいにおいて、僕は群れるのが苦手だ。友人は少ないし、人づきあいも不得手だ。ラーメン屋のカウンターでひとりクラシックビールを飲みながら、スマートフォンで俳句を考えたり、落語のことを考えたりする時間を、なによりも幸せに感じる。落語というのは、一瞬のふとしたセリフに命が吹き込まれる、不思議な芸だ。僕の人生にとって、落語は最高の贅沢だ。
二つ目になって2年目に、NHKの新人演芸大賞の予選を通過したとき、僕は数少ない落語家仲間に連絡して、ささやかに祝おうと思った。けれど、誰も来なかった。「友達が少ないんですよ」と僕は道楽亭のオーナーの橋本さんに言った。彼は、僕とビールを乾杯して、苦笑いをしながら「少ないんじゃない。嫌われてるんだよ」と言った。
それはそれでいい。弱者聖化。人にはそれぞれの距離がある。僕はその距離をとても大切にしている。
「孤独の方がエッグベネディクトよりもまし」
どこかで読んだその言葉が、妙に僕の中に残っている。
ウッディアレンや、立川談志や、松本人志のビジュアルバムや、春日武彦の方が、バーベキューや文化祭や、仲間の寄り合いよりマシだ、と言う意味だ。
前提とする哲学のレベルが合わない。社交辞令を、逆に、品がないように感じてしまう。ポジショントークを、反知性的というか、時間の無駄だと思ってしまう。
和気藹々としたブランチの風景と、孤独。それは悪いものではない。むしろ、この世界に必要な“濃淡”のようなものかもしれない。
都会的な幸福のパッケージ。
エッグベネディクトを食べながら、僕は誰かになりきって、寒く、滑稽な役者を演じていた。陽の光を浴びて、笑い声に混ざって、「ちゃんとした人間のふり」をしていた。
孤独は、自分の声が響く空間だ。
落語の特徴は、一人で、何人もの役を演じることだ。むしろ、そこにこそ真実がある。もしかしたら僕は、現実の中で「誰か」を演じるのが嫌なのかもしれない。
演じる落語の中にこそ真実があり、自然体でいようとする現実の中に、嘘がある——そう感じているのかもしれない。