東大奇人群像②「わらじ男」
東大のキャンパスには、不思議な空気が流れている。それは学問の重厚な香りと、誰にも似ていない個人の匂いが、いつもどこかで混ざり合っているせいかもしれない。たとえば、中庭を歩いていると、「ペタ…ペタ…」という、古びた屋敷の縁側を歩く妖怪のような音が響く。僕は、その音の主を知っている。
Fさんだ。学生自治会の古株。彼のスタイルは、漁村の少年。いや、むしろどこかの国の古代詩人に近い。トレードマークは短パン、Tシャツ、そして素足に草履。まるでどこかの島から流れ着いた旅人のような風体だ。いや、流れ着いたのかもしれない。東大という場所は、往々にして“本流”から外れた者たちの避難所なのだ。
ある日、僕は勇気を出して聞いてみた。
「Fさん、寒くないんですか?」
彼はしばらく沈黙し、パラレルワールドからワープしてきた犬ような、少しだけ現実感の薄い表情で僕を見た。それから、
「……エコだから」
と、ぽつりと言った。その言葉には、説明する気もないという潔さがあった。
確かに草履はエコだ。通気性は抜群、CO₂排出もゼロ、洗う必要もないし、何よりファッションとして圧倒的に目立つ。目立つことを気にしないというより、むしろ「当然だろ?」と、世界に肩を並べる意志すら感じる。だが、誰もそれを真似ようとは思わない。
大学には、他にも奇妙な人が多い。ホストやキャバクラ嬢かと思うようなド派手な服の学生もいる。イカ東、リア充、体育会系、陰キャ、どれもみな、自己表現なのだろう。だけどFさんの草履は、そうした装いの世界の外側にある。孤独な島だ。
冬が来ても、Fさんのスタイルは変わらなかった。雪が舞う朝も、ペタペタと銀杏並木を歩く。
彼のすね毛は自由に伸びていて、その自由さが少し羨ましくもあった。
寒さは、彼にとって単なる気象現象でしかないらしい。もしかすると、彼の草履の裏には、何かとても大切なもの――たとえば「世界平和」や「人類の未来」といった大それた言葉が、こっそりと書き込まれているのかもしれない。そうに違いない。
講義が終わるたび、Fさんはひときわ誇らしげに草履を鳴らし、銀杏並木を抜けていく。その背中を見送りながら、僕はそっと敬礼する。
誰もが何かの抗議者であり、どこかの異邦人だ。そのことを、彼は静かに証明しているのだ。
いまでも、たまに僕は考える。世の中には、たった、ひとそろいの草履で、世界に風穴をあける人もいるのだと。
──ペタ…ペタ…。世界は今日も、少しだけ面白い音を立てている。