「リピートシメスダテ」
小学校高学年になっても、 自分勝手で、運動会の創作ダンスなどを踊りませんでした。理由は簡単。体操服を着せられるのが嫌だったから。ただそれだけのこと。
人が何を思おうが、それは「その人の世界」で起きているだけのこと。私の世界では、そんなこと起きていません。しかし、怒られたり干渉されたりするのは面倒で、風邪だの腹痛だのと理由を作って、静かにその場から距離を取る。反抗心なんてカケラもありません。ただ、やりたくなかっただけです。
けれど、不思議なことに「嫌なこと」がはっきりしているぶん、「好きなこと」もまた、はっきりしていました。
中学時代、そのころ僕は、ダウンタウンや爆笑問題が大好きで、昼休みになると、教室の後ろで5人ほどで集まり、大喜利大会を開催していました。
テーマは「人間」。しかも、普通の大喜利なんかじゃありません。私は当時すでに“心理実験”に手を染めていたのです。
たとえば、変なことをわざと言ってみる。すると必ず「やーい、なんとかなんとか」と大袈裟に口真似をして、繰り返してふざける人がいる。その行為を私は「リピートシメスダテ」と命名しました。
誰かが変な言動をしたとき、近くにいる友達に目を合わせて、違和感や侮蔑の念を共有しようとする人がいる。これは「アイコンタクトシメスダテ」。
薄く笑って、自分がちょっと上にいるとアピールする行動は「スマイルシメスダテ」。
松本人志さんのように、肘の内側に口を押し当てて、ややうしろを向いて、笑いを堪える行動は「笑い堪えシメスダテ」。分類すれば、広義のスマイルシメスダテです。
さらに、自分がいじられていると気がついた時に、無表情でやり過ごそうとする「デッドパンシメスダテ」もある。自分が観察対象にされていることに気付いたとき、人は、表情筋を硬くしてやり過ごすことがよくあります。
会話の影響なんかも、格好の観察対象でした。学年集会でお好み焼きの話をしていたら、隣にいた女子が、触発されて突然「ねえ、お好み焼き好き〜」と、前の女子と話しはじめた。これを「エイキョウ」と名付けた。
最近でも、私がマックで年賀状を書いていたら、隣の席のカップルが「ねえ、年賀状なんか書いてる?」と話し始める。それも「エイキョウ」。
ただし、その影響を受けている自分に気付かれまいと、話題を無理にそらす行動もある。これは「偽装無関心」。これも広義のエイキョウだ。
こんなふうにして、私は、休み時間のたびに、友達と、人間の行動パターンを新規に言語化し、リスト化して大爆笑していた。
しかし、当然私は気づいています。誰よりも“シメスダテ”をしているのは、この私自身なのだと。観察し、名付け、眼差しの客体ではなく、主体であることを必死にアピールしている。
もっと姑息に、もっと明白に、この本を書くことで、このコラムで、自分自身を“シメスダテ”しているのです。
わたしはこの、自分がシメスダテという概念を持っていることアピールする行為を、
「メタシメスダテ」と名付けました。