「万緑に」

大学一年の夏ごろ、落語に夢中だった私を、落研の先輩が山本進先生に引き合わせてくださいました。
初対面の若造である私を、先生はまるで旧知のように受け入れてくださり、御徒町の落語協会の二階で開かれていた、柳家喜多八師匠の小さな会に連れて行ってくださったのが最初の思い出です。
その後も、国立演芸場の招待券をさりげなく手渡してくださったり、何かと気にかけてくださいました。

あの頃の私は、ただただ落語という世界に憧れ、夢中で飛び込んでいった若者でした。
そんな私に、先生は「学ぶこと」の奥深さと、知を積み上げていく楽しさを、時に厳しく、そして温かく教えてくださいました。

筑摩書房の『古典落語』シリーズを読み込み、そこに出てくる慣用句や都々逸、川柳などを、一つ一つエクセルにまとめていく作業も、先生の助言によるものでした。地味で根気のいる作業でしたが、今思えばそれが、私が大学で教鞭を執る土台になっています。

先生は、私に「学究派の後継者」としての道を託したいとお考えだったのでしょう。
「君は落語家に向いていない」
「公認会計士が儲かるらしいよ」
そんなふうに言いながら、進路の軌道修正を促そうとされていたのかもしれません。

ところが、私は春風亭昇太師匠に弟子入りを決意し、その報告をしたとき、先生は「勘当だ」と仰いました。
きっと、落語家になることも、それもまた新作派の師匠に入門するという選択も、先生には受け入れ難いものだったのでしょう。

しかし、時が経つにつれ、前座の私には「まずは師匠だけを見て精進しなさい」と見守ってくださり、二つ目になってからは、独演会の内容に助言をくださったり、大船のご自宅やカラオケボックスで稽古をつけてくださったりと、以前とは違った距離感で、そっと支えてくださいました。

「音ものを学べ」「舞踊も講談も身につけなさい」
そんな言葉に背中を押されて始めた習い事が、いまの『七段目』『紙屑屋』といった演目に繋がっています。

講談は一斎貞山先生から「山崎の合戦」を、舞踊は稽古場で、俳句や歌舞伎鑑賞は日々のたしなみとして。
そのすべてが、今の自分をつくっているのだと、あらためて感じています。
俳句は、ありがたいことにテレビ番組『プレバト』で披露させていただく機会にも恵まれました。

先生が遺されたエンディングノートには、こう綴られていました。
「昇吉が欲しい本やビデオがあったらやる」
私の小さな部屋には、先生からいただいたVHSテープや落語の資料がぎっしりと詰まっています。
すべてがありがたく、もったいなく、私にとってかけがえのない宝物です。

落語について、先生は繰り返しこうおっしゃっていました。
「落語の本質は“人物の移り変わり”にある。登場人物が一瞬で変わる、その妙が肝なんだよ」

人生は、出会いの積み重ねでできている――
それを、私に教えてくださったのも山本先生でした。
「捨てる神あれば拾う神あり」
先生はよくそう仰っていましたが、私にとっての“拾う神”は、まぎれもなく先生その人でした。

青葉の輝きに包まれて、先生のご遺品の紙袋を提げて帰った道すがら、風のやさしい気配に、ふと胸が震えました。


「万緑に提げて遺品の紙袋」 昇吉