「ご唱和ください」

落語の世界に入ると、まず待っているのは、寄席での修業である。

「前座」と呼ばれる新人は、毎日、寄席の楽屋で、お茶出し、師匠方の着物の世話、出番の管理、高座返し……といった数々の仕事を、黙々とこなす。

高座返しとは、落語家が噺を終えて袖に下がったあと、座布団をくるりとひっくり返し、羽織を拾い、名前札(“めくり”)を次の演者のものに差し替えるという仕事である。

ちなみに、座布団にも「前後」がある。四辺のうち、縫い目のない一辺が「前」とされ、それを客席側に向けて返すのが作法とされている。こうしたひとつひとつの所作は、常に先輩方の厳しい目にさらされている。

それだけでも十分に緊張するのに、さらに「仲入り(休憩)」を客席に告げるという、見た目以上にプレッシャーのかかる大役もある。舞台のそでから、「お仲〜入り〜!」と大きな声で呼びかける。ただそれだけのことなのに、これが案外、難しい。

ある日、仲入りの時間がきた。僕よりも後輩の、体格はいいが、気の小さい前座が、深く息を吸い込み、一歩踏み出して気合いを入れて叫んだ。

「さかーもとーふゆーみー!」

会場は一瞬、しん…と静まり返った。そして、客席のどこからともなく、クスクスという笑いが広がっていった。
一方で、楽屋の空気は完全に凍りついていた。

本人は真っ青だった。別に坂本冬美さんのファンというわけでもない。ただ、あまりに緊張していたせいか、思ってもいない名前が、口をついて出てしまったのだ。

それ以来、彼は不思議な“叫び癖”に悩まされるようになる。

別の日には、
「いらっしゃい、ませ〜!」と叫んだ。

またある日は、思わず
「おとうちゃ〜ん!」と叫び、客席から、ささやかな笑いが起きた。

さらには、
「いってらっしゃいませぇー、おー客ー様〜!」と叫び、
そして、ついに、
「ご唱和ぁぁぁ、くだぁさーいー!」
なぜか数人の観客から、軽く拍手が起こった。

追い詰められ、混乱し、滑って転んで。
ついにある日、寄席で一番怖いと恐れられていた師匠の前で、彼は極度の緊張から、こう叫んでしまった。

「ぼくはー、もうぉぉ、疲れーまーした〜!」

会場はまたしても、静寂に包まれた。
だがすぐに、あたたかな笑いと拍手が巻き起こった。
それは嘲笑ではなく、どこか労(いた)わりに似た笑いだった。

楽屋の片隅で、彼は大きな体を小さくして、うなだれていた。台所の隅で、大きな肩を震わせて、声もなく泣いていた。
誰も声はかけなかったけれど、心のどこかで皆、思っていたはずだ。
——よくやってるよ、おまえさん。

落語の世界では、噺をする前に、覚えなければならないことが山ほどある。
だけど、そうやって積み重ねた無数の失敗と、笑われながらも耐えた涙が、いつかきっと、高座に立つための「自信」に変わっていく。

今日もまた、前座の叫ぶ声に、ふと、あの男のことを思い出す。
今はもう廃業してしまった、彼のことを。

私だけが、そっと心の中で、彼の面影を思い浮かべて、
あの優しい笑いを、こらえている。