拾う神

私がその人を好きで、心から尊敬している人たちの話をしたい。
「世の中捨てる神あれば、拾う神あり」というけれど、私は本当に恵まれていると思う。

山本進先生は、生まれて初めて「言葉が通じた」と感じた人だ。
たとえば、「機会費用が安いということは、需要がないということだ」と新聞記者の方に説明しても、まったく伝わらない。何度説明しても、なぜか伝わらない。すなわち、料金が安く(たとえば1000円とか500円)、キャパの小さい(例えば30人の)落語会に、複数の出演者(たとえば4人)で落語をやって行列(たとえば30人)ができていても、それは人気があることを示しているのではなく、逆に、需要が少ないことを表わしている。需要があるのなら、大きい会場(たとえば300人)で、高い値段(たとえば6000千円)で、単独で、高頻度(昼夜で毎日)でやればいい。また、行列や売り切れ御免や予約困難などの、「現象は作れる」。

山本先生だけが「なぜ理解できないのかわからない」と言ってくださる。私も、同じ気持ちだった。本当にわからないのだろうか。それとも、編集意図(たとえば、上司に「いま、若手の落語が熱い」という取材をして来いと言われた)がはじめにあって、それに合わせて「現象」を選び取って、記事や映像を作っているのだろうか?両方だと思う。誤解しているわけではないのに、意図的に切り取り取材をして、印象操作をするということがよくあると思う。

NHK新人大賞の時、「『紙屑屋』で昇吉さんの時だけ電気を消すと、贔屓していることになる」とスタッフの方に言われたことがある。その時も、山本先生は「電気を消すことを依頼して、一方だけを採用したら贔屓になるが、電気を消すという演出を他の誰も思いつかなかったのだから、贔屓にはならない」とおっしゃった。私も本当にその通りだと思う。しかし私は、つい諦めてしまう癖がある。

山本先生も、ある落語企画の監修のようなことを依頼された時、落語を「お笑いの1ジャンル」だとしか捉えていないスタッフに、閉口していた。
先生は「落語の本質は、人物の移り変わり」だと考えている。談志師匠も「笑わせ屋じゃない」と語り、昇太師匠は「アクター」と言い、小谷野敦先生も「話芸」だとどこかで書かれていた。山本先生自身、「私は、あなたよりずっと失望と諦めを経験している」とも語られていた。

喜多八師匠からは、私のネタの半分くらいにあたるほど、たくさんの噺を教えていただいた。「たけのこ」「もぐら泥」「旅行日記」「噺家の夢」「首提灯」…。稽古はいつも、私がお願いするのではなく“強制稽古”だった。もしかしたら、山本先生が私のために、喜多八師匠に稽古を頼んでくださっていたのかもしれない。

2016年5月17日、喜多八師匠は66歳で亡くなった。

「Demain est arrivé un peu plus tôt parce que je ne pensais pas à demain.(明日のことを考えていなかったから、明日は少しだけ早くやってきた。)」――東大奇人伝のケロリンが教えてくれた言葉だ。

私は、人を悼むということにどこか偽善めいたものを感じてしまう。無意識の演技をしているように思えてしまう。大切なのは、生きている時にどう関わるかであり、肉体がなくなっても、心の中に敬意が生き続けていればいいのだと、生きているときと変わりはないと思っている。

2022年11月4日、山本進先生は、私が真打になった翌年に亡くなった。最後に交わした言葉は、「圓朝ものをやるなら、『牡丹灯籠』から始めるのがいい」だった。

私の独演会のチラシの「昇吉の会」の筆文字は、山本先生の手によるものだ。
喜多八師匠に、二つ目になる時に手拭いの表書きを頼んだときは断られた。ああ、残念だ!

思えば、失望や諦めは、美しい。
ひねくれ者こそ、愛おしい。
ただ、いちばん悲しいのは、もう山本先生や喜多八師匠に、稽古をつけてもらうことができない――そのことだ。