せめて高座の上で
僕は、毎日が楽しく過ごせれば、それで満足だ。
落語というのは、江戸時代から伝わる「しゃべるだけの伝統芸能」だ。刀も持たず、扇子一本で世の中を斬る。いや、斬れたためしはない。むしろ、たまに自分の指を切りそうになる。そんな、あぶなっかしい道を歩いている。
僕に安定した生活なんて、まるでない。
“きままに落語”――なんて言うと格好よく聞こえるが、要は“行き当たりばったり”だ。
今日は地方、明日は東京。昨日の晩ご飯はどこで食べたかも、よく思い出せない。
落語の世界は、みんな努力している。でも、努力がそのまま仕事に直結しないところが、この世界の面白さでもあり、恐ろしさでもある。
先日も言われた。「そんな好き勝手できるのは、一部の人だけだよ」と。
しかし、僕は、自分のことしか分からない。僕は他人の人生の実像を把握できるほど、器用でもない。
売れる人の共通点?
「自分のことだけに夢中」らしい。逆に売れない人は「他人の芝生」ばかり気にしている。これ、たしかに落語に限らずどこでもそう。評論家気取りになった瞬間、自分のことが見えなくなる。
映画を見て文句を言うのは簡単。でも、映画を撮るとなると、資金確保も撮影も編集も大変だ。
ボクシングの試合も、テレビの前でなら好きなだけアドバイスできるけど、実際にリングに上がったら、3分は長い。
そんなわけで、僕は今日も自分の高座に集中して生きている。落語は人生だし、人生はネタの宝庫だ。
……でも、人生がすべてうまくいくとは限らない。
せめて高座のうえだけでも、「おあとがよろしいようで」と言わせてほしい。
人生という高座は、なかなか“幕”が下りないので困りますが。