「ほくろが増える夜」

昔、『酔いの口ワイド』というネット番組があった。タイトルの通り、夜な夜な街をさまよい歩き、美味しい酒を飲みながら食レポを繰り広げる、というコンセプトだ。
僕が二つ目になりたての頃だった。出演者は僕、落語協会の兄さん(仮名:さぶ郎あにさん)、それから元チェキッ娘の嶋野蘭さん。なぜ僕らが選ばれたのか分からないが、どうやら「組み合わせの妙」がウリだったらしい。
さぶ郎兄さんは、とにかくインパクトが強い。色白の頬に点在するほくろは10個や20個ではきかない。これがまた絶妙なバランスで配置されていて、知る人ぞ知る兄さんのトレードマークだ。だが、最大の特徴は「お酒が飲めない」ということ。「兄さん、よくこの仕事受けましたね」と初回の打ち合わせで聞くと、「俺はね、自分は酔わないが、客を酔わせる芸人なんだ。」と笑っていた。正直、ちょっと心配だったが、そんな兄さんのチャレンジ精神が好きだった。
番組の収録は、一晩で四本撮りというハードスケジュールだった。
1軒目は磯焼きの店。入った瞬間、磯の香りが鼻をつき、カウンター越しに炭火の上でサザエの壺焼きが、くつくつと音を立てて泡を吹き出している。殻からしみ出す潮だまりの香ばしい匂いと、焼き目のついたホタテがふんわり湯気を上げている。テーブルには大ぶりの海老の塩焼き。赤く色づいた殻を割ると、ぷりぷりの身が湯気を上げて現れる。ビールが最高に美味い。
兄さんは飲めない酒を口にしながらも、食レポの語彙はさすがだった。磯の香りを「母なる海」と表現し、サザエを「懐かしき初恋の味」と評していた。
僕は兄さんのグラスがかなり減っているのに気付き、「兄さん、無理しなくて大丈夫ですよ。ここは食べる専門でいきましょう」と小声でフォローする。兄さんは少しほっとした顔でうなずいてくれた。さりげなく兄さんの皿にホタテを取り分け、「兄さんのコメントが一番味わい深いですよ」と促すと、スタッフも笑って雰囲気が和んだ。
2軒目はコスプレ居酒屋。賑やかな店内は、明るい照明とポップな音楽に包まれている。テーブルに並ぶのは、オムライスや唐揚げ、ポテトフライ。ふわふわのオムライスにスプーンを入れると、とろりとした卵が流れ出す。メイド姿の店員さんたちが給仕してくれるが、兄さんは目のやり場に困っている様子だった。僕は兄さんの様子に気付き、さりげなく店員さんと会話を繋ぐ。そんな兄さんの顔は、次第にほんのり赤らみ始めていた。「兄さん、ペース大丈夫ですか?」と耳元でささやくと、「昇吉、お前がいて助かるよ」と小声で返してくれた。
3軒目は豚肉料理専門店。木目のカウンターには、ずらりと並ぶ串焼き。炭火の香ばしさと、焦げたタレの匂いがたまらない。カリッと焼かれた豚バラ串は、表面の脂が光を反射し、噛めばカリッ、じゅわっと脂が溶け出す。しゃぶしゃぶは、自家製のごまだれにくぐらせると、肉の旨みとごまの香ばしさが合わさり、思わず唸る美味しさ。豚足はとろとろに煮込まれていて、コラーゲンのぷるぷる感がたまらない。
このあたりで兄さんが顔を赤くしてきた。僕は「兄さん、何か飲み物替えましょうか?」とお茶を追加で頼む。
ここで事件が起きた。兄さんが、ついに何を話しているのか分からなくなってきたのだ。
「いやー、一軒目のサザエはやっぱり、子供の頃に食べた……」
唐突に話題が飛ぶ。いや、いま豚しゃぶを食べてるんですけど。蘭さんが苦笑しながら「さぶ郎さん、サザエはもう終わりましたよ」とフォローするが、兄さんはニコニコしながら、「うん、豚足もサザエみたいなもんだ」と意味不明なことを言う。
僕は兄さんの肩を軽く叩き「無理しなくて大丈夫です、今日は兄さんの伝説を作る日ですね」と茶化した。
4軒目は、おでん屋。木のカウンター越しに大きな鍋がぐつぐつと音を立て、澄んだだしが静かに揺れている。カウンターに並ぶおでん種のなかでも、ここの名物はトマトのおでんだった。大ぶりのトマトが丸ごと湯気を上げて浮かんでいる。つるんとした赤い皮は箸で触れるだけで裂けそうに柔らかく、割るとだしがじわっとしみ出し、鮮やかな赤と黄金色のスープが混ざり合う。
大根、玉子、牛すじ、こんにゃく、がんもどき。どれもふっくらと煮えて、湯気の向こうに幸せの幻が見えるようだ。
しかし、兄さんはもう机につっぷしている。僕はスタッフに「今日は兄さん、もう頑張りすぎたんですよ」とさりげなく庇い、無理に話を振られないよう気を配る。
撮影が始まっているので、スタッフが無理やり兄さんの顔を上げてみると、目がとろんとしている。蘭さんが心配そうに覗き込む。「さぶ郎さん、大丈夫ですか?」
ここで僕が冗談を言う。「さぶ郎兄さん、蘭さんに『あーん』してもらいたいですよね?兄さんは甘えん坊なんですよね~。あにさんはかわいいかわいい、赤ちゃんなんですよね」
兄さんは、力なく「うん」と頷く。蘭さんは、眉をひそめて「本当にあーんしますよ」とお箸でトマトをつまむ。「はい、あーん」兄さんは無防備に口を開けるが、トマトは白い湯気がどんどん立ち上るほど熱い。蘭さんが口元まで運ぶと、兄さんは反射的に
「あーーッ!」
と勢いよく吐き出した。トマトの汁が周囲に飛び散り、蘭さんのブラウスにもぽつりぽつりと跡がつく。カメラマンマンも揺れていた。これは名場面かもしれない。兄さんの目が一瞬きらりと光った。僕はすぐに水を用意し、背中を軽くさすった。「兄さん、大丈夫ですよ、無理しなくて」と声をかけ続けた。
番組の最後の締めコメントは、僕と蘭さんが両脇を抱えて店の外で行う羽目になった。兄さんは、下半身の力が完全に抜けていて、肩にずっしり重みを感じる。「兄さん、重いですよ」と言っても反応がない。その間も僕は兄さんの荷物を預かり、なるべく楽な体勢になるよう気遣った。
収録が終わり、スタッフが片付けに入るなか、兄さんが急に泣き出した。
「昇吉、俺はもう長くはもたないかもしれない」
その声はかすれ、涙がほろほろとこぼれていた。
「どうしたんですか?」
「さっき鏡見たら、ほくろが増えてんだ。なんかの病気だ、もうダメだ」
僕は思わず、兄さんの顔をじっと見つめた。なるほど、確かに最初より黒い点が増えている……。でも、それはよく見ると食べ物のカスだった。何か分からないけれど、今夜の料理の残りが兄さんの頬や顎に張り付いているだけだった。
僕は、ポケットからハンカチを取り出し、兄さんの顔をそっと拭った。「兄さん、大丈夫です。ただの食べカスですよ」
兄さんはぽかんとした顔で、ハンカチをじっと見つめていた。
「そうか……俺のほくろが取れたのか」
なぜか感心したように呟き、また静かに目を閉じた。
僕は、兄さんの肩にそっと手を置き、「今日は本当にお疲れ様でした」と声をかけた。

店先には、夏の夜の気配が漂っていた。看板の明かりがにじみ、夜風が少しだけ冷たかった。
あの夜、兄さんの“ほくろ”は確かに増えた。
でもそれは、誰よりも一生懸命番組に挑んだ証だったのかもしれない、と今は思う。
僕は兄さんの腕をそっと支えながら、「来月もまた、このメンバーで飲み歩きましょう」、そう小さく言った。