『ディープフィクサー 千利休』波多野聖

『ディープフィクサー 千利休』波多野聖

 幻冬舎文庫

 

15

上様の天下布武がなれば、日の本は永遠の下剋上の世

 

40

根回し。会議の場は最終の舞台。

 

71

堺納屋衆。御用商人、茶人。

 

126

茶の湯御政道

  • 茶の湯を政治的に利用した織田信長の政策。信長は特定の家臣に茶の湯を許可し、茶の湯は武家儀礼としての資格をそなえることになった。こうした茶の湯の政治化が信長によって築かれ、豊臣秀吉によっておしすすめられたが、江戸時代に入ると、茶の湯の政治性は薄れた。

http://www.omotesenke.jp/より≫

 

  • 織田信長が、茶道を部下の統制に用いた。茶道は元々が「政治的要望によって生み出された様式美」である。茶道の様式が確立するのは、足利義政が能阿弥に命じて真行草の台子点前を定めてからのことですが、実はそれ以前から、茶道は足利将軍家によって整えられていた歴史があります。足利義満が義持に将軍職を譲って、北山に建てた金閣寺では、闘茶に代わって茶宴とも言うべき、茶会が開かれました。北山文化というのは、寝殿造の荘厳華麗な外観に対して、内に潜む清淡な気風と時代精神が横溢しており、そこで営まれた文化的生活の水準の高さを象徴しています。当然当時の風潮にのって、義満も唐物を蒐集していました。この北山御物とも言われる品々が、後の東山御物において重きをなしていく名物となります。義持は子義量に先立たれて後、後嗣を立てずに亡くなります。これによって室町幕府は権力闘争が始まり、将軍権力が管領の差配するところとなり、籤引きで選ばれた義教は将軍権力を回復するために、改革を断行します。この際の権力の権威付のために茶の湯を利用したことが、茶道の格式が定まっていく最初の要因です。義教が将軍になって後、後花園天皇より鎌倉茄子・花山天目・青瓷雲龍水指が下賜され、義教本復後に行った三種飾りの献茶が記録に残っていますが、これが「三種極真の飾り」として初めて台子点前が定義されるに至ります。義教の後継者である義政は、茶の湯に没頭し、父義教から使える能阿弥によって「真・行・草」の点前が確立します。これが「奥秘」の原型です。「君台観左右帳記」に記された「茶湯棚飾」にそれが記されています。残念ながら「君台観左右帳記」は原本が紛失されており、写本や刊本のみが遺されいますが、室町期の唐様文化を今に伝えています。

     文化に傾倒しすぎた義政は、政治を顧みず、権力闘争を拡大させてしまい、結果として足利将軍家が文化の保護者でありつづけることができず、茶の湯と名物は商人たちの手に渡って、新しい茶の湯文化が興ります。この嚆矢が村田珠光であり、ここから侘茶が始まる訳です。つまり、茶の湯は「政治的な時代の要請によって生み出され変質し、再び政治に活用された」ものであると考えられます。
    https://ameblo.jp/darkpent/entry-11999342992.htmlより、抜粋≫

 

161

価値とは、人間が創り出す観念に過ぎない

 

162

茶の湯御政道はアートを政治力の一つに組み込む

 

236

北宋の『大観茶論』

 

251

優越と満足、嫉妬と焦り。殿下への御奉仕を競わせる

 

271

民を切支丹にして心を奪い、国土を支配して搾取

 

272

有力大名を切支丹にし武器を供与して支援。織田信長。

 

291

堺、京、山口、博多の会合衆、大商人は軍需物資を扱う死の商人

 

313

草を使って国衆を煽り一揆を起こさせた

 

348

感情で動いているだけなのに、そこに自分の立場から理屈をつけようとする

 

349

多くの老僧が遊女を買っている事実

 

369

恐いのは種を蒔く者だ。純粋に目に見えないものを信じている。

 

411

健康で長生きの秘訣は。欲。

 

412

嫉妬の対象。欲の裏返し。